「数学、物理、哲学は、一つの未来に向かって収斂しているのではないか」
自分の中で、以前からこういう感覚がありました。
その感覚は、追い求めて、突き詰めるほど強くなってきました。
数学も物理も哲学も、もともとは一つでした。プラトン、アリストテレスから、デカルト、ライプニッツ、ニュートンへ。彼らはみな、数学者であり、物理学者であり、哲学者でもありました。
その流れは中世で一旦止まり、近代以降はそれぞれの分野が独立した専門領域として発展を進めてきました。
一つのものが数学、物理、哲学に分かれ、より下のレイヤーでも数学がまた代数学、幾何学、解析学に分かれるように、枝分かれが続きます。この専門分化はどこまでも進んで、発散し続けるのでしょうか。
そんなことを考える中で自分の中に生まれたのが、次のような感覚でした。
「この分化した『何か』は、あくまでも脈々と続く一つのレールの上で、(発散ではなく)むしろ徐々に収斂してきているのではないか」
発散しているのに収斂もしている。細かく分かれ続けると、いつの間にか全体がまた一箇所に集まっている。
それぞれが別の次元を向きながら、発散しつつ収斂をしているのです。
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人間をたとえに取ってみます。
500年前まで、世界の人口はわずか5000万人ほどでした。しかしそこからヒトは爆発的に増えて、今では70億人を超えています。そろそろ75億人を超えた頃でしょう。これは、人類の数としての発散、量的な発散です。
それと同時に、世界にはインターネットの普及による急激な均質化も生まれています。多民族、多文化だった地球は、もはやなくなり、人種も言語も価値観も、この数十年で極めて均一になってきています。これは、人類がもつ性質の収斂、質的な収斂です。
人類は爆発的な速度で発散しながら、同時に指数関数的な速度で一点に収斂しています。
そして、科学の探求もまた同様です。専門分化は進み発散しますが、それぞれの分野は相互に、有機的につながり、向かう先はいずれも同じに感じられます。
数学者は世界が記述される論理体系を追い求め、物理学者はこの宇宙の成り立ちについて考え、哲学者は人生の意味を探求するというのではありません。数学という論理体系はこの世界そのものの一つの表現型であって、人間が認識するこの宇宙空間や、個々人の人生もまた、この世界の別方向への射影です。数学者も、物理学者も、哲学者も、同じものを別々の方向から追い求めています。それは、過去から未来へと繋がるこの世界の実体は何なのか、という問いかけへの収斂でもあります。
僕は昔から未来に強い関心をもっています。
そして、未来を予測するには現在について、また科学やテクノロジーについて深く知ることが不可欠です。数学、物理、哲学は現在について、すなわちこの世界について知るための有用なツールです。
未来を適切に予測することで、その成果を現代に還元することができます。これは僕に取って夢でもあり、趣味でもあり、医療者としての自分のライフワークのために必要な作業でもあります。
そういうことを追い求めたいと思って行動しています。